「僕は鵠沼(くげぬま)の東屋(あづまや)の二階にぢつと仰向(あふむ)けに寝ころんでゐた。その又僕の枕もとには妻(つま)と伯母(をば)とが差向ひに庭の向うの海を見てゐた。僕は目をつぶつたまま、「今に雨がふるぞ」と言つた。妻や伯母(をば)はとり合はなかつた。殊に妻は「このお天気に」と言つた。しかし二分とたたないうち・・・」(芥川龍之介 鵠沼雑記より)
芥川龍之介が執筆活動していた鵠沼東屋。この東屋のあった鵠沼とは一体どういった土地だったのだろう。今の鵠沼は湘南屈指の高級住宅街。当時の鵠沼は・・・。
江ノ電鵠沼駅下車、徒歩一分の所に賀来神社がある。その境内に「鵠沼海岸別荘地開発記念碑がある。戦時中この賀来神社にお参りして出征した兵士は一人も戦死者、戦傷者も出ず全員無事帰還出来た様で、地元の信仰は厚い。 その記念碑によると、鵠沼海岸一帯を開発したのは、川越の武士で上野彰義隊の生き残りであると言われている伊藤将行が尽力したようだ。もともと賀来神社は九州大分にあり、元二万一千石の大名で子爵の大給氏の守護神であった。明治19年当時東京神田にあった大給氏の屋敷内に分祀してあったのを、近くにある旧藤倉電線の創業者藤倉善八が移した。それを鵠沼海岸開発の際、今の江ノ電鵠沼駅の前に分祀したのが始まりである。
明治22年大給氏は宮内庁で式部職にあり、当時葉山か鵠沼海岸に、御用邸を造る話が持ち上がっていた。大給氏はその情報を入手。当時出入りのあった伊藤将行に、今の江ノ電鵠沼駅周辺から海岸線までの、広大な土地の買収に当たらせた(日本初の地上げ屋)。
しかしその後、御用邸は葉山に決まり、大給子爵の手元には広大な畑と砂丘が残り、早急に処分する必要性がでた。それも伊藤将行に、これも日本初だが、宅地、別荘地分譲販売をやらせた。その結果一気に周辺の開発が進んだ。
土地の買収、開発、分譲と言う巨大プロジェクトを川越の一武士では出来る事業ではなく、大給氏が裏で相当動いたと思われる。しかし賀来神社の資料、また鵠沼海岸別荘地開発資料等どこにも大給氏は現れず、完全に黒幕に徹したようだ。
写真は芥川龍之介が通ったと言われている床屋。今はオーナーも変わっているが、当時の趣のままで営業している。
当時大山詣りは大山神社(男神)から江の島の弁天様(女神)までが一つのルートで、人々は精進落としと言って、江の島界隈でいろいろな息抜きをしたそうだ。 其のころ近辺に旅館は、鵠沼館と中屋しか無く常に込み合っていた。これに目をつけた伊藤将行は当時、鵠沼館の女中頭であった長谷川栄(内縁関係)を引き抜き、料亭旅館「東屋」を開業した。目前に江ノ島、沖に大島、伊豆、西を見れば霊峰富士、料理が旨く落ち着いた雰囲気が人気を呼び、多くの文化人が利用した。文壇では武者小路実篤、菊池寛、芥川龍之介、演劇界では松本幸四郎(7代目)、尾上梅幸(6代目)等、とりわけ芥川龍之介は大のお気に入りで、東京から一家で東屋の一角に引っ越してきている。
当時鵠沼海岸一帯で蜃気楼が見られると言う事が、新聞に載り大騒ぎになった。龍之介も朝の散歩の時に見たと思われる。これがきっかけで小説「蜃気楼」が書かれた。 芥川龍之介は女子学生の間ではカリスマ性が高く、朝、海岸を散歩しているときには、何時も何人かの女学生が付いていた様だ。旅館「東屋」は関東大震災で崩壊し、当時の記録等は殆ど消滅してしまった。今は東門の跡に記念碑が在るだけで当時を偲ぶものは、何も残っていない。唯一つ、マリンロードには芥川龍之介の小説「歯車」に出てくる、理髪店は今でも現存している。
江ノ電鵠沼駅下車、目の前の喫茶「きせん」でお茶しながら散歩道を確認。

目の前の賀来神社をお参りし、天金通りの鰻屋「天金」(中で食事は出来ません)で鰻重を注文。

鵠沼海岸商店街マリンロードの当時のままの理髪店を見て、旅館「東屋」後の碑と東門の溝跡を確かめる。

蜃気楼が見えたという鵠沼海岸で明治のロマンを感じながら、美味しい鰻を食べる約30分の散歩コース。
