鎌倉市には白旗神社が鶴岡八幡に2社、藤沢市に1社ある。八幡の境内にある神社には源頼朝と源実朝が祀られており、頼朝のお墓のすぐ横にある白旗神社は、古くは法華堂と言われていたが明治5年、神仏分離により源頼朝を祀り、白旗神社とした。元々この法華堂は頼朝の持仏(戦の時、髷の中に入れるお守り)を祀っていた。 藤沢の白旗神社は、元は相模一の宮寒川比古命の御分霊を祀って、寒川神社と呼ばれていた。また名前の白旗は平家の赤い旗印、源氏の白い旗印からきている。
文治5年(1189年)源義経は衣川で藤原泰衡に攻められ、自害した後その首は、美酒に漬けられ2か月近くかけられ鎌倉に送られた。それを腰越の宿で和田義盛、梶原景時両名が首実検をした後、海岸に捨て置いた。その首が境川を遡り、今の白旗神社の近くに流れ着き、それを地元の人が哀れに思い当時の寒川神社に祀った。もう一つの説は腰越海岸に捨て置かれた首がその夜、神社まで空を飛んでいったと、二つの説がある。その報告を受けた頼朝はただちにその神社を白旗神社と名前を変え、義経を祀るよう指示をした。
平安、鎌倉時代の人々は崇りを信じていた。祟り神の横綱は何といっても菅原道真(天満宮)と、平将門だろう。菅原道真公が九州で亡くなった後、天満宮を造営するまで都では、風水害、疫病等天変地異が多発した。平将門塚などは、戦後東京大手町に占領軍が取り壊してビルを建てようとしたが人災、天災等多発したため取りやめたと言う。近いところでは、太田光(タレント)が将門塚を足蹴りにした後しばらく仕事が来なくなった(?)と言う話を聞いたことがある。 義経の死後、鎌倉にいろいろな災いが起こり、頼朝は義経の祟りだとして恐れていたところ、義経の首が神社に祀られた報告を受け、即座に寒川神社を源氏の守護神である白旗神社に変えさせたのではなかろうか。
色々な文献を調べても義経はよく出てくるが、弁慶については、物語である義経記、平家物語、源平盛衰記等には大活躍だが、公文書と言われている「玉葉」「吾妻鏡」にはほとんど記述が無い。「玉葉」(右大臣九条兼実の日記)には義経の家来とし佐藤四郎忠信、伊勢三郎、堀弥太郎(金商人吉次?)のみで弁慶の名前は無い。鎌倉幕府の公文書である「吾妻鏡」には、義経西海下りの折、大物浦(尼崎市)沖で嵐に会い遭難し、生き残った人物に伊勢三郎、堀弥太郎、弁慶、静の4人のみ名前が記されている。 義経が確かな歴史書に登場する期間は義経22歳(1180)の冬、黄瀬川での兄頼朝との対面から31歳(1189)の夏、衣川での自決までの9年間だけで、その前後は定かではない。
義経と弁慶を比較していくと、真逆であり、かつ類似点の多いのに気が付く。義経の母、常盤は「日本一の美人」と記され、弁慶の母と言われている2位大納言の娘も「天下一の美人」と同じ口ぶり。常盤を囲っていた清盛は牛若の秀でたるところをみて、「政敵の子を一所に育てては、後々大変な事になる」と言って、法師にしようとした。鬼若(弁慶)は胎内18ヵ月、2〜3歳の子の様で生まれ髪長く、奥歯も向歯も大きい。この様な者を傍においては、将来大変なことになると言う事で出家させられる。牛若も「向歯、さらに差し出でたる」と記されている。義経は色白小柄で公達風、一方弁慶は大柄で荒法師。名前も牛若と鬼若。鬼若は牛若の異形変で公達牛若の鬼神化だと思う。牛若が鞍馬に居たころまだ、五条大橋は架かっていなかった。故に橋の上で、牛若と弁慶が、切り結んだ事など起こり得ない。本来弁慶は義経の荒事における分身であろう。その分身の個性化は、院の庭先で大音声で勧進帳を読み上げ「物狂」とも「刃の験者」と呼ばれた稀代の荒法師文覚上人や、義経北国経由奥州下りの手引きをしたと言われている、比叡山の悪僧、俊章、承意、仲教等を一人の人物像として弁慶を造り上げたと考えられる。