Home湘南散歩道茅ヶ崎 頼朝の死と旧相模川橋脚

江戸時代の茅ヶ崎

頼朝の死と旧相模川橋脚

遡って江戸時代を見ても、藤沢宿と平塚宿との中間の立場(たてば)(休憩所)であって宿場ではなく、やはりマイナーな感じがする。旅人は藤沢宿を出発して茅ヶ崎の立場で一休みして、また次の平塚宿に向けて旅をした。その途中に相模川(馬入川)があり、今は橋が架かっているが、当時、橋は無く渡し船で川を越えていた。この馬入川が、川止めになると旅人達は足止めを食って、川止めが解けるまで、現在の茶屋町辺りの立場に泊まった。川止め時、多い時には200人を超え一般人だけでなく、大名も例外でなく茶屋泊まりになった。当時茶屋町辺りには茶屋が5・6軒あり、飯盛り女などを置き、茅ヶ崎で一番賑やかなところだったらしい。


源頼朝の死と、馬入川の名前の由来

湘南散歩道 頼朝の死と旧相模川橋脚

国道1号線を茅ヶ崎から平塚方面に進み、小出川に架かる下町屋橋の手前を左に折れ、少し行くと国指定史跡の「旧相模川橋脚」がある。1923年9月の関東大震災の時、畑の中から突如7本の檜の丸太が出現し、翌年1月の余震でさらに3本みつかった。この丸太は直径60センチも有り、その後の調査でこの柱跡は1198年(建久9年)、頼朝の妻政子の妹の夫である稲毛三郎重成が、妻の供養に架けた橋の橋脚と考証され、中世橋梁遺構として高く評価されている。

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頼朝は、この橋の開通式を終え帰路に就いたとき、馬が暴れ相模川へ飛び込み落馬し怪我をした。それが原因で17日後に死亡したと言われている。それ以来相模川の下流域を馬入川と言うようになった。現在の相模川、馬入橋は「旧相模川橋脚」より、約800m西にあり、当時、相模川はよく氾濫を起こし蛇行し多くの中州を造り、その名残が柳島、中島、丸島、矢島、懐島等、町名が残っている。


頼朝の死因

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死因については、色々な説があるが、落馬説が大勢を占めている。しかし鎌倉時代の武将が、落馬するなんてあるのか?と言う所から、別の死因の説もでている。現代の乗馬のプロ中のプロ、武豊でさえ、落馬の経験がある。別に武士が落馬しても、不思議ではない。頼朝が落馬した原因は三つの説が言われている。一つは、安徳天皇(壇の浦の戦いの時入水)の亡霊、平家一門の亡霊、義経の亡霊等、怨霊を見たため。二つ目は、脳溢血を起こして落馬した。三つ目は、飲水の病(糖尿病)で体が思うように動かず、また眼も不自由のため落馬して怪我をし、その病の所為で傷が治らず死亡した。 別の死因説は、水戸光圀の「真俗雑録」の記述に、頼朝が女装して、女性の所へ忍んで行った時、警備をしていた安達盛長に誤って切られ、それが原因で死亡したとされている。大正8年、近代の大劇作家、真山青果(明治11年〜昭和23年)が、女性の所に忍んで行く時、切られる頼朝を「傀儡船」と言う劇に書き、明治座で二代目佐団次を主役で初演している。これはあまり評判は良くなかった。 昭和7年再度青果は、一部手直しをし、題名も「頼朝の死」と変え、同じく二代目佐団次で上演した所、大評判になり本作は、歌舞伎の秀作と言われ今日に至っている。いずれにしても、歴史上最も偉大な将軍「源頼朝公」の死に関して、余りにも記述が少なく、鎌倉幕府の公文書である「吾妻鏡」にも殆ど記録がない。 頼朝の死後時間を置かず、橋供養をした稲毛重成も暗殺されている。頼家、実朝と続けさまに暗殺され、頼朝の死後僅か20年で源氏正統は根絶やしになった。稲毛重成の暗殺(口封じ?)頼家の妻の実家の比企一族の滅亡、1205年北条氏に滅ぼされた鎌倉幕府の名門、畠山一族。よくよく背景を観ると常に北条の影が見える


散歩道

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茅ヶ崎駅を降り、国道一号線へ出て、50m程藤沢よりに戻ると、お江戸日本橋より14個目の一里塚がある。今風に言うと、東京より54.98kmの標識。そこから国道1号線を平塚方面に行くと、南湖入口と言う交差点があり、そこを左に入ってすぐの所に金剛院と言うお寺がある。そのお寺の境内の左端に若松先生のお墓がある。当時茅ヶ崎の中心はこの辺りで、茅ヶ崎で一番古い小学校、茅ヶ崎小学校の前身である「琢生学舎」があった。明治7年、二代目の教師若松先生の時、南湖の生徒13名が学期末試験で落第した。若松先生はその責任を取って腹を十文字に切り死亡した。今では考えられない責任の取り方だが、その後、関係者が先生を偲んで建てたのがこのお墓だ。元の国道一号線に戻り平塚方面に400m程行くと、千の川に架かる鳥井戸橋の袂に東海道五十三次の版画で有名な安藤広重の「南湖の松原左富士」の石碑がある。東海道西行きで富士山が左側に見えるのは、静岡の吉田町と、この南湖だけらしい。当時は海岸まで葦原が続き、海、富士山がよく見えた様だが、今は工場、ビル等でよく見えない。さらに西へ6〜700m程行き、小出川の下町屋橋の手前を左に入った処に、国定史跡跡の「旧相模川橋脚」が目に入る。 出現当時の写真や、その後の保全工事等の説明が記載された案内板があり、また頼朝が落馬したのがこの辺りかと、改めて古い橋脚(本物はレプリカの真下)を眺めた。行程は約一時間少々。私はいろいろな場所、見所を確認しながら歩きましたので、二時間以上かかり、いささか疲れましたので、帰りはバスで帰りました。バスは結構出ています。


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